成田山国分寺の宗派真言宗のながれ
わたしたち成田山国分寺の宗派は真言宗です。ここでは開祖弘法大師入定後の真言宗のながれについて説明します。
真言宗中興の祖 興教大師覚鑁上人
興教大師覚鑁上人は、真言宗の開祖弘法大師の入定後、高野山を復興するとともに弘法大師の真言宗の教えを再興しました。真言宗智山派では中興の祖としてお祀りしています。真言宗中興の祖覚鑁上人は嘉保二年(1095)六月十七日、肥前国藤津庄(現在の佐川県鹿島市)に生まれました。父は総追捕使(軍事指揮官)で伊佐平次謙元といい、母は橘家の「なみ」といいました。覚鑁上人はその三男で幼名を弥千歳といいました。
蓮厳院(佐賀県鹿島市能古見)の裏には浄土山があり中腹に岩屋山興法寺という石窟寺院があります。覚鑁上人は、この辺りで幼少の時、座禅をしていたという言い伝えがあります。
十三歳の時に仁和寺成就院の覚助(1057〜1125)の室に入り、十六歳で得度、十八歳で「十八道加行」を勤修し、二十歳で僧として守るべき戒律である具足戒を受けました。そして二十歳の年(1114)の高野山に入り、保安二年(1121)伝法灌頂を受けます。
大治元年(1126)、覚鑁上人三十二歳の時、真言宗の教義を活発に討論していくべきであるとして、伝法会再興の志を立てます。そして、鳥羽上皇の院宣(指示)を受けて、大治五年(1130)三十六歳のときに、高野山に伝法院を創設しました。翌々年に大伝法院・密厳院も落慶して、大施主鳥羽上皇の御幸があり、伝法大会が修されました。
長承三年(1134)鳥羽上皇の院宣によって真言宗中興の祖覚鑁上人が大伝法法院座主職に任ぜられ、さらに金剛峯寺座主を兼任すると、東寺の僧徒と金剛峯寺の僧徒からの反発をかい、そこで翌年、覚鑁上人は両座主職を高弟の真誉にゆずり、密厳院に入っての無言の行に入りました。いわゆる千日無言の行です。
しかし、金剛峯寺の僧徒の怒りはおさまらず保延六年(1140)十二月八日の早朝、一部が暴徒と化して密厳院に乱入したと伝えられています。この時、堂内に二体の不動明王がお祀りされているだけで、真言宗中興の祖覚鑁上人の姿は見あたりません。そこで暴徒たちはどちらかが覚鑁上人に違いないと考え、矢じりで不動明王の膝を刺しました。両方の不動明王の膝から鮮血が流れ出たので暴徒たちは驚いて逃げてしまったという「錐鑽不動」(身代わり不動尊ともいわれている現在の根来寺のお不動さま)の伝説があります。こうした金剛峯寺方との対立の中、覚鑁上人は高野山を去る決心をします。
真言宗中興の祖覚鑁上人は、以前、平為里の帰依により岩手荘の寄進を受けて神宮寺建立した根来山に移しました。根来山では覚鑁上人は弘法大師にならい虚空蔵求聞持法を修してその結願の日、お堂を出たところ、夜空に無数の諸尊が満ちて、あたかも覚鑁上人を迎え入れるかのように立ち並んだと伝えられています。この時、覚鑁上人が諸尊を拝んだ小高い丘陵は、「伏し拝みの山」とよばれ、根来寺の山号を「五百佛山」と称するようになりました。
康治二年(1143)二月八日に、鳥羽上皇を根来に迎えて、大円明寺の落慶法要を営み、山内の整備もすみますが、真言宗中興の祖覚鑁上人は、この年の十二月十二日、四十九歳で入滅されました。その後、江戸時代の元禄三年(1690)に東山天皇から「興教大師」の諡号がおくられました。
覚鑁上人の教え
高野山での千日間の無言の行の時、覚鑁上人は厳しい現状批判と深い自己反省の文『密厳院発露懺悔文』を著したとされています。この中で「みんなの罪業を私が代わって、今、懺悔する」としています。この文は世界の宗教文学の中でも最高傑作の一つであるといわれています。
また真言宗中興の祖覚鑁上人は『五輪九字明秘密釈』を著して、当時、盛んであった極楽浄土信仰を真言密教の立場から解釈しました。「九字」とは阿弥陀如来の九字の真言(オン、ア、ミリ、タ、テイ、セイ、カ、ラ、ウン)で「五輪」とは真言宗の大日如来の象徴(ア、バ、ラ、カ、キャ)です。曼荼羅の中では大日如来は中心の尊で、阿弥陀如来は四方の四仏の一尊です。四仏は大日如来の働きをする仏さまですから、阿弥陀如来も大日如来の現れであるとして、阿弥陀如来の信仰は大日如来の信仰に通じ、別のものではないとしました。
また、密教では師から弟子に受け継がれる修行の方法などを伝える流派を「法流」といって大切にしますが、覚鑁上人は寛助を祖とする広沢六流の一つである伝法院流の祖でもあります。覚鑁上人は真言密教の座禅ともいうべき阿字観を広めました。
頼瑜・聖憲と新義教学
法身である大日如来がどのように説法をするかをめぐって、加持身説をとる学派が新義派、本地身説をとる学派が古義派です。法身を形をとらない本地身と形を現す加持身とに分けて、後者の加持身の状態で説法をしたというのが加持身説法で、この両者を分けずに法身は本地身であり、この本地身が説法をしたというのが本地身説です。
頼瑜僧正(1226〜1304)は、加持身説法をはじめて唱え真言宗新義教学の祖とされました。頼瑜僧正は興教大師が入滅されてから八十三年後に、根来山に近い紀伊国那賀郡山崎村の豪族、土生川源四郎太夫の子として生まれました。
十四歳の時、根来山弥勒院の玄心和尚を師として出家し、十年後の二十四歳の頃に南都(奈良)の諸大寺に遊学し、東大寺では三論と華厳を興福寺では唯識を学び、東大寺真言院では密教の奥義を受けました。
三十一歳の時に京都の仁和寺真光院で経瑜阿闍梨から広沢流という法流を受けました。経瑜阿闍梨は覚鑁上人が信仰していたご本尊さまや所持していた法具、真言宗中興の祖覚鑁上人自筆の書等を受け継いでおりました。これが覚鑁上人の教えや遺風に直接触れる機縁となったと思われます。三十二歳の時から『十住心論』の注釈『十住心論愚草』を起草し、生涯の仕事となりました。
三十六歳の頃から醍醐寺報恩院・憲深僧正(1192〜1263)より報恩院を受法します。憲深僧正は頼瑜僧正の学識を高く評価し、「頼瑜は一山の英傑なり」と讃嘆し、頼瑜僧正に醍醐寺の寺務を総括する有職をまかせました。この時、頼瑜僧正が受法した報恩院流(「報」の字の「幸」と「恩」の字の「心」をとって「幸心流」ともいいます。)は現在でも真言宗智山派総本山智積院に脈々と受け継がれ、真言宗智山派の正式な法流となっています。成田山国分寺は真言宗智山派で総本山は京都の智積院で大本山が千葉県成田山新勝寺です。四十二歳の時に憲深僧正の弟子である実深、公雅の要請により醍醐寺の塔頭の一つである中性院に止住します。そして、五十五歳の時、報恩院流と源流を同じくする「地蔵院流」の実勝から法流を受け継ぎ、中性院流(地蔵院流実勝方)を創始しました。
六十一歳の時に高野山「大伝法院」の真言宗学事の最高責任者である第四十三代学頭職に就任しました。しかし、興経大師の時代から燻っていた金剛峰寺方と大伝法院との対立が激しくなり、頼瑜僧正は六十六歳の時に大伝法院と密厳院の遺構を根来寺に移すことを決意しました。
この「大伝法院」と「密厳院」の根来への移転が「新義真言宗」の起源となります。以後は根来を中心に活躍し、正安元年(1299)に「竪義」をおこないました。竪義とは南都興福寺や東大寺などで行われていた問答によって理解を深めていく学問研鑽の方法です。このような議論をとおして真言宗教理が整理、体系化されていきました。嘉元二年(1304)覚鑁上人以降の教えを確立し、多くの著作を残し真言宗新義の教学の祖となった頼瑜僧正は七十九年の生涯を根来山で閉じられました。
聖憲僧正は幼少の頃から俊才の誉れ高く根来山弥勒院の実俊僧都に師事し、中性院の増喜から中性院流を受法しました。増喜は聖憲僧正の才能を高く評価して真言密教の奥義を余すことなく伝え、「経相」は頼瑜僧正の弟子の順継と頼豪の二師に学びました。
二十八歳の頃には、学問の拠点として盛大であった久米田寺(現・大阪府岸和田市)で盛譽(1273〜1362)から諸経の教義を学びました。後に増喜に推されて中性院第四世の学頭を務めました。「加持門先徳」、「根嶺先徳」と称され、頼瑜僧正以来の真言宗新義教学を継承して加持身説をさらに整備しました。
聖憲僧正の主な著作は『大疏百條第三重』(『大日経』の注釈書である『大日経疏』の問題点百條に関する書)と『釈論百條第三重』(『大乗起信論』の注釈書である『釈摩訶衍論』の問題点百條に関する書)で、現在に至るまで真言宗論議の教科書として用いられています。聖憲僧正は明徳三年(1392)、八十六歳で生涯を閉じました。
智山と豊山
玄宥僧正は享禄二年(1529)、現在の栃木県皆川城内町に生まれました。七歳の時、父のすすめで持明院宥日僧都の弟子になり出家、十八歳で真言宗根来寺へ登り、天正五年(1577)に客方の学頭職として、根来寺の塔頭の一人である真言宗智積院の学頭職(学事の最高位の称号)になりました。
当時は、能化職の就任も変則的状態であり、本来一人であるべき能化職が、二人いました。客方(各地方の師僧寺院で出家得度済みの僧)の能化である玄宥と常住方(根来寺で出家得度済みの僧)の能化である専誉の二人でした。秀吉の根来攻めによって玄宥能化と専誉能化は真言宗学侶達とともに根来寺から退き、高野山に向かうことにしました。
玄宥僧正は高野山の木食応其のはからいで、天正十三年(1585)三月、清浄心院とその周辺の諸堂に身を落ち着けました。以後、七年間、高野山に在山することになります。
文禄二年(1593)、玄宥僧正は秀吉から高野山を立ち去るように命ぜられ、各地を流転することを余儀なくされながらも真言宗智積院再興への思いを持ちつづけていました。
そして、ついに慶長五年(1600)徳川家康より真言宗智積院再興の下知があり、慶長六年(1601)、豊臣秀吉を祀った豊国社内に坊舎二ヶ所と、敷地を賜り、智積院を再興しました。玄宥僧正は、自ら真言宗智積院中興第一世と名のり、慶長十年(1605)七十七歳で示寂しました。
その後、真言宗智積院は江戸期を通じて、学山として栄え、運敞僧正(智積院第七世化主、1614〜1693)をはじめとする、すぐれた学僧を輩出し、境内は数百名にものぼる真言宗修行僧の宿舎として七十有余棟の寮舎が建立されました。
近代になり、明治三十三年(1900)、真言宗智積院第四十七世瑜伽経如能化の時、「新義真言宗智山派」を公称しました。「智山」という名称の根拠は明確ではなく、いつ頃から称されたかははっきりしませんが、第十二世義山能化の伝記の中で「掛錫智山」として初めて使われています。
一方、専誉僧正は、1588年豊臣秀吉の弟である豊臣秀長の招きにより大和の国(現在の奈良県)の長谷寺を賜りました。観音霊場であった真言宗長谷寺は、専誉僧正の入山により新義真言宗の学山としての面を伴せもつことになりました。明治三十三年「新義真言宗豊山派」を公称しました。「豊山」は真言宗長谷寺の山号です。
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