真言宗弘法大師の生涯
成田山国分寺は真言宗の寺院です。真言宗の開祖である弘法大師空海の誕生から入定までを時代ごとに説明していきます。
誕生
弘法大師空海(774〜835)は、奈良時代末の宝亀5年(774)6月15日、現在の香川県善通寺市に生まれました。当時は讃岐の国多度郡屏風ヶ浦といいました。父は讃岐国を治める国造(地方支配機構)の佐伯直田公、母は阿刀氏の出身で玉依で、その三男として生まれました。幼名を真魚といいました。
大学への入学
伊予親王(桓武天皇の第三皇子)の学士(教育掛)であった母方の叔父(母玉依の弟)、儒学者の阿刀大足のもとで、弘法大師は「論語」や「孝経」などの儒教の典籍を学びました。そして十五歳のとき延暦7年(788)に大足に伴われて上京して、十八歳で大学の明経科(中国儒教の経書を学ぶ科)に入学を許されました。そのときの勉学の様子は「首になわをかけ、腿を錐で刺して睡魔を防いだ」(「三教指帰」)と自ら表現するほどでした。しかしほどなく立身出世を目的とした大学の学問に疑問を感じるようになっていきました。
求聞持法
このころ、一人の僧に逢い、「虚空蔵求聞持法」を授かりました。これは虚空蔵菩薩の真言「ナウボウアキャシャギャラバヤ、オンアリキャマリボリソワカ」を百万遍唱えれば、一切の教えの文章や意味をことごとく暗記する能力を身に付ける秘法です。
弘法大師は四国の山嶽、阿波の大滝ヶ岳や石鎚山を歩き修行したとされています。そして、土佐の室戸崎で、虚空蔵求聞持法を修したとき、明けの明星が弘法大師の口にとびこんできたという宗教的体験をします。このときの様子を、弘法大師は「谷響きを惜しまず、明星来影す」(谷はこだまを返し明星が姿を現した。「三教指帰」)と表現しています。
出家の宣言
二十四歳のときに、儒教、仏教、道教という三つの教えの優劣を論じて、「三教指帰」(「聾瞽指帰」の改題)を著し、仏教こそが最高の教えであるとして出家を宣言しました。このころ大学を退学したものと考えられますが、それから三十一歳までの詳しい行状はわかっていません。山野を歩きまわって修行する山林修行者として暮らしていたとされています。
「大日経」との出会い
仏教の真髄を極めようと仏道修行を続けていた弘法大師はある夜、大和国高市郡久米寺の東塔の下に「大昆盧遮那成仏神変加持経」(以下「大日経」)があることを夢で知り、この地を訪ね「大日経」を発見したと伝えられています。しかし「大日経」を読んでみてもその内容を理解することができませんでした。日本にはその疑問に答えられる師がいませんでしたので、この疑問を明らかにするために弘法大師は中国の唐に渡る決心を固められたとされています。
入唐求法
弘法大師は、延暦23年(804)四月、三十一歳の時、東大寺戒壇院で具足戒を受け、五月に入唐の勅許が下り、七月、留学僧として遣唐大使藤原葛野麻呂が乗る遣唐使船第一船に乗ることができました。そして九州長崎の松浦郡田の浦から中国大陸に向かい出帆しました。現在この地では解纜(船のともづなを解くこと)法要を行い、弘法大師の苦労と志を偲んでいます。
海上での暴風雨など幾多の苦難を乗り越え、出帆から三十四日後、到着予定地から大幅に離れた福州県渓県の赤岸鎮に漂着しましたが、日本からの公式の使者であることを認めてもらえずなかなか上陸を許されませんでした。しかし州吏との交渉で弘法大師が訴状を書き(「性霊集」巻第五)これによって信頼を得て上陸が許され、長い陸路を経て、田ノ浦を出帆してから約半年後の12月末、唐の都長安に到着しました。
恵果阿闍梨との出会い
長安に着くと弘法大師は密教の師を求めて諸寺を歴訪しました。はじめ西明寺にとどまり、このころ醴泉寺のインド僧である般若を訪ねています。般若からは、インドの言葉(梵語)や諸宗教を学びました。そして、五月末、ついに青龍寺の恵果阿闍梨(746〜805)にめぐりあいます。恵果阿闍梨はすぐに弘法大師の器量を見抜き、六月に胎蔵界の学法灌頂、七月に金剛界の学法灌頂を授けました。この学法灌頂とは密教を学習する許可を授かる灌頂のことで、この時、弘法大師は大日如来と結縁し、大日如来の別名である「遍照金剛」という名を恵果阿闍梨から賜りました。
そして、809年の八月上旬に、密教を伝える大阿闍梨伝法灌頂職位を授かりました。ここに弘法大師は正統密教を受け継ぎ、密教付法の第八祖となりました。恵果阿闍梨は弘法大師に「早く郷国に帰り、国家に泰り、天下に流布して蒼生(万民)の福を増せ」という言葉を遺し、その年の12月15日、六十歳で入滅されました。
帰朝
弘法大師は、恵果阿闍梨が遺された言葉にしたがい、密教を広め人びとを幸福にするために、一刻も早く日本に帰ることを決心しました。規則によって定められていた二十年間の留学僧としての勤めを二年足らずできりあげ帰国することを、唐の皇帝憲宗に願い出て許されました。こうして大同元年(806)、経典二百十六部四百六十一巻、両部曼荼羅、法具、仏像等を携えて帰朝しました。この時、帰朝報告として「御請来目録」を著しました。この中で、インド伝来の正統密教を受け継いだ経緯と、密教が最高の教えであることを朝廷に上奏しますが、大宰府の観世音寺に一年近くも足止めをさせられてしまいます。朝廷においては平城天皇が即位するといった混乱の時でもあり、また、弘法大師が定められた留学年数よりも早く帰ってきたことへの対応策や待ち帰ってきた密教についての議論などがなされていたものとおもわれます。
高雄灌頂
その後、朝廷から許可を得て弘法大師は大同四年(809)に京都の高雄山神護寺に入りました。そして、弘仁三年(812)十一月、十二月に、同寺において、恵果阿闍梨より受け継いだ金剛界灌頂と胎蔵界灌頂を、天台宗の最澄はじめ奈良の学匠や名士ら190名に授けました。これが、いわゆる、高雄灌頂です。
高野山の開創
弘法大師は四十三歳の時、弘仁七年(816)六月、修禅の道場として和歌山の高野山を嵯峨天皇より賜りました。この高野山開創の話は「今昔物語」巻十一に記されています。それは次のような話です。「弘法大師は唐の長安にいて(真言の秘法を広めるのにふさわしい場所に飛ぶようにと)一本の三鈷杵を投げた。十数年を経てその三鈷杵が落ちた場所を尋ね歩いていると、身の丈八尺ばかりの赤ら顔の異様な猟師に出会う。大小二匹の黒犬をつれていた。身分を問うと「高野山の犬飼でございます」という。猟師は高野明神(狩場明神)の化身であった。さらに、丹生明神に会い、高野山に案内されて行くと、山中の一本の松の枝に、彼の三鈷杵がつきささっていた」という説話が伝えられています。その松の場所は現在の御影堂の建つあたりとされています。弘法大師は、弟子の実慧と泰範をともなって、弘仁八年(817)、高野山開創に着手しました。
東寺を賜る
東寺は都が奈良の平城京から京都の平安京に遷された延暦十三年(794)に建立された天皇を檀越とする国家鎮護の寺でした。平安京の正門である羅生門の東側に立てられたので東寺(西側に西寺が建てられましたが現存しません)とよばれますが、正式名称は教王護国寺といいます。弘仁十四年(823)一月に嵯峨天皇からこの東寺を賜り、真言密教の専門道場としました。
社会活動
弘法大師は四十八歳の弘仁十二年(821)に香川の満濃池の堤防修築工事を監督指導して竣工させました。
天長五年(828)には一般庶民の子弟の教育のために東寺の東域に綜藝種智院という学校を建てました。今日、日本各地に残る大師信仰や伝説は弘法大師が実際に行った社会活動の偉大さによるものといえます。
文芸活動と書
弘法大師は、嵯峨天皇、橘逸勢とならんで三筆の一人といわれる書の達人です。恵果阿闍梨が亡くなられた時も並みいる弟子の中から選ばれ、師の碑文を書きました。その書は、唐の皇帝憲宗から「五筆(篆・隷・楷・草・行)和尚」と称えられ、現代の中国にも語り伝えられています。
弘法大師が作られた漢詩文を集大成したものに「遍照発揮性霊集」(略称は「性霊集」)があります。「性霊集」は、わが国最初の個人詩文集で「源氏物語」「枕草子」などの王朝文学の先駆をなし、第一級の漢文として後世に多大の文学的、宗教的影響を及ぼしたとされています。
さらに弘法大師は詩文の創作を志す後学のための手引きとして、六朝および唐の時代における詩文の創作理論を編纂した「文鏡秘府論」を著しました。
入定
弘法大師は天長九年(832)五十九歳の時、高野山金剛峯寺で曼荼羅諸尊を供養する万燈会を行いました。この万燈会に際し、弘法大師は願文の中で、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きん」と述べています。(「高野山万燈会の願文」『性霊集』巻第八)この宇宙が尽き果て、すべての生きとし生けるもの、一切の衆生が悟りを得て仏となり、涅槃を求めるものがなくなった時に私の願いも終わる。という意味です。入定の前年、承和元年(834)、京都から高野山に退き、「生期、今、幾ばくならず、(この世にいるものや今や残り少なくなった)汝等、好く往して、仏法を慎み守れ。吾永く山に帰らん」(『空海僧都伝』)と弟子たちに告げました。
そして、承和二年(835)三月十五日弟子たちを集めて、高野山、東寺などを託し、一人一人になにをなすべきかをいい残し、三月二十一日高野山で入定されました。六十二歳でした。「弘法大師」の諡号は、入定後八十六年を経た延喜二十一年(921)に、醍醐天皇よりおくられました。
真言宗成田山国分寺では境内に弘法大師像をお祀りしております。
弘法大師の著作
『秘密曼荼羅十住心論』(略称『十住心論』)十巻は大師の主著です。人間の心のあり方を十の段階に分けて説明しています。『十住心論』においては、第一住心から第九住心までの顕教も密教的解釈では密教であるという九顕十密の構造を説いています。
『秘蔵宝鑰』は『十住心論』の引用文などを省略して叙述も簡潔にしたものです。第一住心から第九住心までは顕教であり第十住心だけが密教とし、顕教と密教次元が違うとする九顕十密の構造を説いています。
『弁顕密二教論』二巻は「密教」と「顕教」を対比し、その優劣を論じる問答形式になっています。弘仁六年(815)頃の著作とされます。
『即身成仏義』は真言密教の立場から「即身成仏」を論じたものです。顕教では長い時間の修行の末に成仏できるという三刧成仏を説きますが、これに対して密教では、この身このままで成仏できるという即身成仏を説くことを主張しています。また、宇宙の森羅万象を法身大日如来の現われと見て、宇宙の真実の姿を、本体(体大)、すがた(相大)、はたらき(用大)の三方面から論じることによって、この身このままが大日如来と同体であると説き、即身成仏の原理と実践を説き示しています。
『声字実相義』は「法身説法」の根拠について詳説し、大宇宙のあらゆる音声はみな大日如来の説法であると説きます。著作年代は不明です。
『吽字義』は『即身成仏義』『声字実相義』ととに「三部書」といわれ大師の教学の根幹をなします。「真言」について明らかにした著作で、真言には無量の意義がありその中に大日如来の世界が内包されていることを「吽」という梵字の解釈をとおして証明したものです。著作年代は不詳です。
『般若心経秘鍵』は『般若心経』の注釈書です。弘法大師は『般若心経』を大般若菩薩の境地を説いた真言密教の経典であると位置づけています。
『秘密曼荼羅教付法伝』(略称は『広付法伝』)は密教を伝えてきた祖師の伝記です。大日如来から第七の恵果阿闍梨に伝えられた密教を弘法大師が直接受け継いだことを明らかにしています。
『御請来目録』は大同元年(806)、唐から帰朝した弘法大師が、持ち帰った経典や法具の目録を記録して朝廷に提出したもので、密教が「即身成仏」の教えであり万民が安楽で豊かになる教えであることを宣言しています。また弘法大師の入唐求法の経緯が記録されています。
『三味耶戒序』は弘法大師が平城天皇に結縁灌頂を授けた際の「三摩耶戒」の内容が説かれています。三摩耶戒は、真言宗に帰依した者が、曼荼羅壇に入って灌頂を受けるものが必ず受持しなければならない戒です。
『梵字悉曇字母並釈義』はわが国の最初の悉曇研究書として資料的価値が高いものです。悉曇の説明と功徳を説いています。
『文鏡秘府論』
『性霊集』
『篆隷万象名義』は日本に現存する最古の漢字辞書です。綜芸種智院で使われたと考えられています。
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